2025年9月号
なぜ僕は“会社員ランナー”ではなく、

プロランナーを選んだのか《前編》
社会人としての安定か、未知の挑戦か。学生駅伝を経て、その分かれ道で吉田響が選んだのは、プロランナーという茨の道だった―。その決断の裏にあった運命的な出会い、そして自分の中にあった葛藤、思い描いた未来への希望を語ります。
《前編》ー現在の記事

《後編》
Chapter3
「守られる場所を出て―プロの厳しさとやりがい」
Chapter4
未来に描く自分―“吉田響本人”が見据える景色」
―北海道合宿に行って、いま3日-4日ぐらいですか?合宿入って調子は良さそうですか?

吉田響
そうですね。調子がよくて、良い練習ができています。涼しくて練習にはちょうどいいぐらいなんですけど、気温が20度前後で、朝は少し寒いくらいで、寒いのは少し苦手です(笑)(9月中旬にインタビュー)

Chapter1
「安定か挑戦か―岐路に立った大学時代」

―では、本題に入っていきたいと思います。まずは大学時代を振り返って聞かせてください。
大学駅伝に励む中で、進路についてどういう選択肢があって、プロや実業団など、どんな迷いがあったのでしょうか。

吉田響
はい。大学3年生の頃に、「実業団に入るか」「プロになるか」っていうのが卒業後の大きな選択肢でした。多くのランナーが実業団を選びますけど、自分はどうするか、迷っていました。』
創価大学時代の吉田響選手とチームメイト
創価大学時代の吉田響選手とチームメイト
―大学1年生の時に「プロランナーを意識し始めた」と過去のインタビューで話されていましたが、それまではプロという存在を全く意識していなかったんですか?

吉田響
そうですね。もともとは「競技は大学まで」と考えていました。
大学で陸上部に入ってから、初めてプロを意識するようになったきっかけがあって―それが、今も一緒にやっている瀧川コーチと練習を始めたことでした。』
偶然か、必然か―瀧川コーチとの出会い
―いつ頃から瀧川コーチに指導を受けるようになったんですか?

吉田響
1年生の夏ですね。自分が怪我をしてしまい、チームと別メニューになったのがきっかけでした。当時、瀧川コーチは東海大学のコーチをされていて、そのタイミングでマンツーマンのような体制が始まりました。

それまでは集団練習の中で監督やコーチに見てもらう形でしたが、怪我を機に瀧川コーチと1対1で練習する体制になったんです。』

(吉田響のリハビリを任せられた瀧川コーチは当時、吉田選手に合わせた独自メニューをつくり、ロード練習はもちろん、クロスカントリーや山道での練習を積ませるなど、箱根駅伝でのデビューを見据えて、持久力を磨き上げていったと振り返っている。)
―具体的には何が良かったんですか?

吉田響
自分自身、スピードよりも持久力を伸ばしたいと思っていたので、マンツーマンで練習することで力がつき、成長を実感できました。
大学の練習は基本的に決まったメニューを全員でやるので、「自分に合ったやり方をしたいのにできない」という難しさもあったんです。


その点、瀧川コーチとの取り組みは独特で、他の部活動や実業団にはないような方法でした。だからこそ「自分はマンツーマンで練習した方が強くなれる」と考えるようになりました。怪我が治ってからは、チーム練習と個人練習をうまく組み合わせるようになりました。』
―実際に1年時の箱根駅伝を走ってみてどうでしたか?

吉田響
そうですね。大学1年生の箱根駅伝は、5区を走り、区間2位(1年生歴代最高記録)という結果を出せました。この初めての箱根駅伝での走りで、自分の中に明確な手応えが生まれたんです。
大学で競技をやめるつもりだったのが、この経験を境に「プロランナー」という選択肢を本気で考えるようになりました。

競技を続けるなら、実業団のように組織に入ってやるよりも、マンツーマンで自分に合った練習をした方が絶対に強くなれる―そう確信するようになりました。
そこからは瀧川コーチにプロランナーの世界について話を聞いたり、相談させてもらうようになっていきました。
―実業団かプロか―迷っていた当時、それぞれにどんな魅力と不安を感じていましたか?

吉田響
実業団には大きな安定感があります。会社の中で競技や選手をサポートしてもらえて、生活もある程度保証される。
でも同時に、そこにいるとどうしても「守られている感覚」があって、自分が本当にどこまで強くなれるのかは見えにくいと感じました。


一方でプロは、すべてが自己責任で正直怖い部分もあります。けれど、その分「自分次第でどこまでも行ける」という可能性を強く感じていました。』

ー実業団の陸上部とは
実業団の陸上部とは、企業がチームを持ち、所属する選手を会社員として雇いながら競技活動をサポートする仕組みである。毎月の給与や寮・住居、練習環境が整っているため、生活の安定はもちろん、ケガをしたときのリハビリや栄養管理なども手厚く支えてもらえる。練習に専念できる環境があることが、選手にとって大きな安心につながる。

さらに大きな特徴は、監督やコーチ、専属のトレーナー、マネージャーといったスタッフも同じチームの社員として関わっている点である。練習の計画づくりからケア、大会前後の準備、そして大会当日のサポートまでを、実業団が一貫して行ってくれる。そのため競技に集中しやすい環境があり、実業団所属の選手にとっては非常に大きなメリットとなる。

こうした「守られた環境」で走れるからこそ安定はあるが、一方で、すべてを背負って戦うプロとは違い、自分のなりたい選手像になれるか、個のアスリートとして力がどこまで強くなれるのかは見えにくい。チームの方針があるため、選手個々の意思や目的は認められにくく、チームと選手の方向性が異なれば、選手が成長できない、時には才能が潰されてしまうこともあり得る。だからこそ、吉田選手があえて安定を離れ、プロの道を選んだことには、大きな目的と価値、そして可能性があるのだ。

一方で日本において純粋なプロマラソンランナーは非常に少ない。実業団という安定した選択肢が主流である中、プロという道はまだ実績も蓄積されておらず、日本の陸上界にとっても未開拓の世界といえる。

代表的な存在として知られるのが、"大迫傑選手"である。実業団を経てプロに転向し、自らスポンサー契約を結び、マネジメントも自身や自身の会社で行いながら競技を続けてきた。純粋なプロランナーとして成功を収めた数少ない例であり、その姿は多くの若い選手に影響を与えている。

その他に、
川内優輝選手(元埼玉県庁職員。プロ転向後は個人契約で活動)がプロマラソンランナーとして活動している。ただし、大迫傑選手ほど「純粋なプロランナー」として知られ、実績を残した例はまだ極めて少ない。

この実績のないプロマラソンランナーの世界へ、その裏にあるリスクを理解しながらも2人はお互いを信頼し合い、まだ誰も見ぬ未知の世界を求めて歩き出したのである。

―学生時代に憧れていた選手は?

吉田響
箱根駅伝で活躍した神野大地さんや柏原竜二さんに憧れていました。山を駆け上がる姿が本当にカッコよくて、「自分もこんなふうに強くなりたい」と素直に思いました。神野さんや柏原さんからは「ひたむきさ」や「限界に挑む姿勢」を学んだ気がします。
大迫傑さんは自分のブランドを切り開いて突き進んでいくイメージがあって、独自の道を選び、世界に挑戦していく姿にはすごく刺激を受けました。
そうした先輩たちの姿を見て、「プロという道もあるんだ」「自分も挑戦できるかもしれない」と、プロを現実的に考えるようになったきっかけになりました。

※神野大地
2012-2016 青山学院大学「三代目山の神」「山の神野」とも呼ばれた。
※柏原竜二
2008-2012 東洋大学「2代目・山の神」「山の神童」。
※大迫傑
2010-2014 早稲田大学 マラソン元日本代表選手。
大学時代、吉田響選手は安定した実業団と、未知のプロという選択肢の間で迷っていた。そんな中、大学1年生の夏に負った怪我が大きな転機となる。運命のように瀧川コーチとの出会いを引き寄せたのだ。「怪我がなかったら、今の自分はなかったかもしれない」と吉田響選手自身も語る。

その時から瀧川コーチは吉田響を箱根駅伝に向けて、特性を伸ばす独自のトレーニングメニュ―を作り、秘密兵器として箱根駅伝(2022年)に照準を合わせた。そして1年生の箱根駅伝 5区で区間2位という1年生歴代最高記録という結果を残した。未だにその記録は破られていない。大学で競技をやめるつもりだった箱根駅伝を走り終えた吉田響選手の気持ちに変化が生まれた。

瀧川コーチとの練習は、単なる体力づくりではなく、未知の世界への扉を開く時間でもあった。心の中に小さな火が灯ったのだ。吉田響は自分の力で本当に強くなれる環境を求めた。リハビリのためのマンツーマン練習。その一歩一歩の積み重ねが、やがてプロランナーの道への原点となり、ここから吉田響の物語が動き始めたのである。

Chapter2
「プロになると決断した日」

―では、その「決めた瞬間」について聞かせてください。プロになると決めたのはどんな時だったんですか?

吉田響
決めたのは大学3年生の時です。瀧川コーチと話をしている中で「プロとしてやっていこう」と決めました。ただ、その瞬間は「やりたいけど、本当にできるのかな」という不安も正直ありました。
そんな時に瀧川コーチから「お前がやらないなら、誰がやるんだ」と熱い言葉をいただいて。本当に嬉しかったし、勇気をもらえました。

その後も練習や大会を積み重ねる中で結果が出てきて「やれるかもしれない」から「できるに違いない」という気持ちに変わっていったんです。
一つひとつやるべきことを丁寧に積み上げれば結果は出る―そう確信できました。だから大学3年生の箱根駅伝を終えたとき「プロランナーになる」とはっきり決断しました。

決めたあとの4年生の1年間は、もう迷いはありませんでした。「絶対に結果を出して、プロランナーとして活躍できるように頑張る」―その覚悟が固まっていました。』
―ご両親に伝えた時の反応はどうでしたか?

吉田響
両親は意外とあっさりしていて、「やりたいことをやりなさい』と、一切反対はありませんでした。
もちろん心配はしてくれていましたが、それ以上に自分の気持ちを尊重してくれて、本当にありがたかったです。
両親には心から感謝していますし、最高の両親だと思っています。」
―仲間や同期はどうでしたか?相談などはしましたか?

吉田響
相談は正直、一切しませんでした。でも、創価大学の同期の存在は本当に大きかったです。
プロランナーというのは多くいる世界ではないので、周囲からはネガティブな意見も出ると思うんですけど、同期に伝えたときに、吉田凌や小暮が「響ならできるよ!頑張れ!俺たちも負けないように実業団で頑張るからな!」と言ってくれたことが、すごく嬉しかったです。

大学時代、同じ目標を持ち、一緒に練習し、苦楽を共にしてきた創価大学駅伝部の仲間の存在は、今も自分にとってとても大きな支えです。』
―今後の挑戦という意味では、トレイルランにも新たに参戦していくそうですね?

吉田響
はい。大学時代に、監督からプロトレイルランナーの上田瑠偉選手のことを聞いたのがきっかけで、トレイルランを知りました。陸上とは違って山の中を走り、自然の豊かさを感じながら走れるところに大きな魅力を感じました。』

※上田瑠偉
31歳 現役プロトレイルランナー。2019年『MIGU RUN SKYRUNNER WORLD SERIES』での年間世界ランキング1位という快挙を達成。
―山道を走るのが好きなんですか?

吉田響
はい。普段からクロスカントリーのコースやトレイルのような場所で練習していて、山の中を走るのがすごく楽しくて好きなんです。特にアップダウンのあるコースが好きで、ロードやトラックだけだとどうしても単調に感じてしまう。山の中だと上り下りが険しく、景色もどんどん変わっていくので、そういう変化が気分を乗せてくれるんです。』
―マラソンとトレイルランの(競技者レベルの)両立はこれまで聞いたことありませんが、実現できそうですか?

吉田響
学生時代からこうした山道での練習を続けてきたことが、「トレイルランのレースにも活かせるんじゃないか」と思うきっかけにもなりました。だからこそ、挑戦してみたいという気持ちが自然に出てきたんです。

ただ、陸上は春がトラックシーズンで、秋冬は駅伝やマラソンがあります。そこにトレイルを組み込むのは難しい。実業団の選手だと二刀流はほぼ不可能なんです。そうした点でも「プロランナーになる」という選択が、自分にとって大きな意味を持っていました。』

(ロードランニングは秋から冬場がハイシーズンであり、トレイルランニングは春から秋がハイシーズン。
―プロになると決断したときは、もう不安はなかったんですか?

吉田響
もちろん不安はありました。プロは結果がすべてですし、収入面など不安定な部分も多いので、色々と考えました。
ただ、当時は経済的な不安よりも、「本当に自分が通用するのか」という気持ちの方が強かったです。自分が競技者として世界で戦えるかどうか―そこが一番の不安でした。

それでも最終的には、「ここまで強くなれたのは瀧川コーチと一緒にやってきたから」という自信と、「瀧川コーチと組んでマラソンで活躍したい、世界で勝てる選手になりたい」という思いが、不安を上回りました。』
―プロランナーになって、実現したいことはありますか?

吉田響
瀧川コーチと世界で活躍する選手になりたいですし、まずはそれが応援してくださる方への恩返しと思っています。あと、よく考えるようになったのは、プロランナーとして何がお返しできるだろうということです。今でもすごい悩んだり考えたりしています(笑)。

いまの自分が考えているのは、ただ速く走るだけじゃなくて、走りをひとつの“ツール”にして、いろんな方とつながったり、誰かの希望や勇気に少しでもなれればと思っていて、これまでとは違う形で、(競技以外の)社会全体に良い影響を与えられるような選手になりたいと思っています。

自分独自の道を切り開く方法はいろいろあると思うんですけど、僕は一人で突き進むというよりも、走りを通して人と出会い、その人たちが仲間や味方になってくれる―
そんな形で道を広げていきたい。漫画でいうと『ワンピース』のようなイメージです。

こうした考え方は、大学時代の競技生活の中で出会った人たちや仲間と過ごす時間、大学駅伝というカルチャーの素晴らしさ、そして箱根駅伝出身の先輩プロランナーの姿を見て、刺激を受けた部分も大きかったですね。』

大学3年生の頃、吉田響は大きな決断を迫られていた。安定した実業団という道を捨て、瀧川コーチと二人三脚でプロランナーとしての道を歩む―その選択だ。「お前がやらないで誰がやるんだ」というコーチの言葉が、迷いを振り切る勇気となった。

プロの世界では、勝てば称賛、しかしすべての結果が自分に跳ね返り、責任と重圧、緊張感も受け止めなければならない。だが、瀧川コーチの指導で強くなりたいという思い、世界で大きく羽ばたきたいという志、さらにトレイルランへの挑戦心――これらが重なり、重圧さえも跳ね返す力となった。

大学4年生を迎える目前、吉田響は誰よりも挑戦を恐れず、プロとしての第一歩を踏み出す覚悟を固めていた。その背中には、夢を追い続けるアスリートの熱い鼓動が確かに刻まれていたのである。

歴史の長い陸上界ではあるが、まだプロスポーツとしてリーグ化など興行としても仕組み化されているわけではなく、プロ選手として活動すること自体が大きなリスクを伴う。それを理解したうえで吉田響はその道を選び、瀧川コーチもまたそのための会社設立という自身の人生を賭けた決断をした。決して簡単ではない選択だからこそ、二人の挑戦には大きな意味があり、我々ファンとしても今後どのような軌跡を描いていくのか、楽しみでならない。

これまでにいない新しいプロマラソンランナー像の姿、そして陸上界全体のプロアスリートの新しい概念・文化の確立に、非常に期待している。

※本記事の一部に誤りがあり、2025年10月8日に訂正しました。ご関係者の皆さま、読者の皆さまにご迷惑をおかけしましたことを、心よりお詫び申し上げます。
2025年9月号
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-HIBIKI YOSHIDA Official site-

    

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